鍋を開けた瞬間
わかりました。
焦げた香りがしました。
やってしまった。
外郎生地という素材
水無月の生地は、外郎生地でつくります。
米粉と砂糖と水。
それだけです。
シンプルな素材ほど、難しい。
ごまかしがきかない。
火加減が、すべてを決めます。
焦がした日
外郎生地を練っている途中、他の仕事に気を取られました。
ほんの少し、目を離した。
それだけでした。
鍋を開けた瞬間、わかりました。
焦げた香りが、鼻をついた。
底が、変色していました。
やり直しです。
材料も、時間も、無駄になりました。
悔しかった。
自分の不注意です。
言い訳できない。
外郎生地を捨てながら、思いました。
この生地は、目を離した瞬間に、牙を剥く。
火は、待ってくれない。
集中が途切れた瞬間に、結果が出る。
和菓子の仕事は、そういうものです。
火加減の難しさ
外郎生地は、弱火でじっくり練ります。
焦らず、急がず。
強火にすれば、早く仕上がる気がする。
でも、違います。
強火にすれば、焦げる。
かといって、火が弱すぎれば、生地に火が通らない。
ちょうどいい火加減が、あります。
でも、その火加減は、言葉にできない。
「どのくらいですか」
そう聞かれても、答えられない。
「見ていれば、わかる」
それしか言えない。
最初の頃、その言葉が答えになっていませんでした。
でも、今はわかります。
見ていれば、わかる。
それが、唯一の正解です。
火の前に立って、生地を見続ける。
その積み重ねが、火加減を体に入れていく。
近道は、ありません。
練る、ということ
外郎生地は、練り方も難しい。
練りすぎると、固くなります。
練り足りないと、柔らかすぎます。
ちょうどいい状態は、手が知っています。
鍋の中の生地が、ある瞬間に変わります。
重くなる。
艶が出る。
香りが変わる。
その瞬間が、止め時です。
一瞬の判断です。
迷っていると、過ぎてしまう。
最初の頃、その瞬間がわかりませんでした。
「まだか、まだか」と思いながら練り続けて、気づいたら固くなっていた。
逆に、早めに止めて、柔らかすぎた日もありました。
何度もやり直して、ようやく手が覚えてくる。
この変化は、目で見るだけではわかりません。
鍋を握る手に、伝わってくる。
重さが変わる。
その重さを、手が覚えていく。
それが、職人の仕事です。
蒸し加減
練り上げた生地を型に流し、小豆を散らして、蒸します。
ここでも、加減が問われます。
蒸しすぎれば、固くなる。
蒸し足りなければ、生っぽくなる。
蒸し器を開ける瞬間、いつも緊張します。
「今日は、どうか」
そう思いながら、蓋を開ける。
ちょうどいい状態の生地は、表面に艶があります。
揺らすと、ふるふると揺れる。
その揺れ方で、わかります。
これも、言葉では説明できない。
「揺れ方を見ればわかる」
そう言っても、最初はわからない。
何十回と蒸して、ようやく目が覚えてくる。
艶の出方。揺れ方。表面の張り。
すべてが、その日の生地の答えです。
蒸し器の前で、じっと見ます。
目を離さずに。
上新粉との違い
上新粉は、音で判断します。
外郎生地は、目と手で判断します。
どちらも、言葉では伝えられない。
どちらも、体で覚えるしかない。
素材によって、覚え方が違う。
それぞれに、それぞれの声がある。
その声を、一つ一つ覚えていく。
それが、職人の一生です。
小豆の散らし方
外郎生地に小豆を散らします。
計算して散らすと、不自然になります。
無造作に散らすと、偏ります。
その間が、難しい。
これも、言葉では教えられない。
何百回と散らして、手が覚えていく。
三角に切る
蒸し上がった水無月を、三角に切ります。
この形が、氷のかけらを表しています。
切り方にも、技術があります。
包丁の角度。
力の入れ方。
一度に切り下ろす。
迷いながら切ると、断面が荒れます。
迷わず切ると、きれいな断面になります。
包丁も、正直です。
六月三十日に向けて
六月の半ばから、水無月をつくり始めます。
六月三十日、夏越しの祓。
その日に向けて、準備します。
六月に入ると、気持ちが変わります。
「そろそろだな」
毎年、同じ感覚があります。
店の空気が、変わる。
六月の湿気の中で、外郎生地を練る。
汗をかきながら、鍋の前に立つ。
これが、夏の仕事です。
今年の外郎生地は、どんな仕上がりになるか。
最初の一個をつくった瞬間に、わかります。
今年も始まった、と。
何十年やっても、その緊張は変わりません。
慣れてきた頃に、失敗します。
外郎生地は、そういう素材です。
だから、毎年最初の一個は、丁寧につくります。
今年の生地の声を、聞くために。
焦らず、急がず、目を離さずに。
六月三十日に、間に合わせる。
それが、この季節の仕事です。
結び|焦げた香りが、教えてくれたこと
あの日、鍋を開けた瞬間の香りを、今も覚えています。
焦げた外郎生地の香り。
情けなかった。
でも、その失敗があったから、今があります。
目を離さない。
火は、待ってくれない。
外郎生地は、ごまかしがきかない。
それを、体で覚えました。
失敗した数だけ、手が覚えていく。
焦げた回数だけ、火加減がわかっていく。
固くなった回数だけ、止め時がわかっていく。
遠回りに見えて、それが一番の近道でした。
六月が来るたびに、鍋の前に立ちます。
火を見ながら、生地を練ります。
目を離さずに。
焦らずに。
その日の生地の声を、聞きながら。
今年の水無月も、その積み重ねの上にあります。
次回予告|おはぎと職人|もち米との格闘
春と秋、年に二回つくります。
もち米は、炊き直しがきかない。
その一瞬の判断が、おはぎを決める。
次回は、その話を書きます。